連載-1 消費者にとっての公取委の審判制度はなぜ大事か?(下)
立教大学法学部教授 舟田 正之

二 審判制度が独立性を支えている

 前回(上)で公取委や消費者委員会の独立性のためには、それを支えるさまざまな制度的仕組みが必要だといいました。公取委の場合、その中で一番重要な仕組みが審判制度なのです。
 審判において、公取委は、公開の場において、審査官と被審人の双方の主張と立証活動を公平な立場から審理し判断します。
 (1)公開の場で審判手続がなされます(さらに、独禁法70条の15や情報公開法によって、議論や証拠などの事件記録に対し開示請求が可能)。
 (2)審判手続において双方の主張を公平に提示し、そこで出された証拠だけによって判断がなされます(68条)。
 (3)委員会は、審判官に審判手続を委ねることができますが、審判官は審査官とは別個の公平な第三者として手続きを行います(56条1項参照)。
 (4)審決は、委員長および委員の合議によって行われます(69条1項)。また、審決書には、事実と法の適用が明示され、さらに、委員の間で意見の対立があるときは、少数意見を付記することもできます(70条の二第2項)。
 これらによって、透明性・公開性、公正さの担保、そして、当該処分をすることについて基礎となった事実認定と結論についての説得的な理由の明示が確保されているのです。
 このような手続きがあるから、公取の独立性が実際に保たれるのですし、逆に独立性があるから、上記のような審判制度を動かすことができるのです。

 これに対し、前の例に挙げた農水省や経産省など、一般の行政庁による通常の行政処分は、非公開の手続で、つまり、行政内部でどのような意見があったかも分からないままで、また、どのような事実と法解釈を基にしてかは必ずしも明らかでない形で、行われます。
 もっとも、行政手続法などによって、不利益処分などについては若干の手続的権利が認められていますが、処分の相手方でない消費者に対しては、ほとんど手続的権利がみとめられていません。

 前記の公取の独立性と審判制度の相互関係については、制度・組織の仕組みとして述べましたが、もちろん、具体的な事案において、実際にその趣旨が必ず実現しているかというと、疑問が提示される場合もあるとも指摘されています。
 すべての制度・組織は、常にその趣旨が実際に生かされているか、具体的な事実に関し、公取委の活動が行われたか、行われなかったか、また、その内容はどうだったか、などの検証を、内部と外部の双方で常に行うことが必要でしょう。
 そのためにも、事実と意見が公開されなければなりません。それも、公取委から見て都合の良いことだけが公開されるのでは不十分であり、そのためにも前記の(1)以下の審判の仕組みが必要なのです。

 ところで、経団連「独占禁止法の抜本改正に向けた提言」(2007年11月20日)などでは、公取委が自ら審査を行い、排除措置命令・課徴金納付命令を下しているのに、審判において、自ら行った行政処分の当否を判断する構造それ自体が不当であり、直接に裁判所に訴えるように直すべきだ、と批判しています。
 しかし、公取委が排除措置命令を出した後に、命令を受けた事業者がそれを不服とした場合、命令を出した公取委に対し審判請求をし、公取委が審判において審理を行うという仕組みは、決して不当なものではありません。
 第一に、一般論として、どのような人でも、あるいはどのような組織、例えば公取委のような行政庁であっても、同じ事柄を再考する、というのは大事な過程です。いったん、十分な根拠に基づいて判断を下したと当人が思っていても、それを批判する側の意見を再度よく聞いて、相手側に対する尊敬の念に基づいて、白紙から考え直すという慎重さと柔軟な思考・態度は、どのような場合でも重要であると思われます。
 ちょっと違う例ですが、この10年くらいの間に、多くの大学は、学生に対し、期末試験などにおいて各担当教員が下した成績評価(優良可、とか、ABCD)に対し、再考を求める制度を整えてきています。
 私が勤務する立教大学でも、「成績評価調査請求制度」と呼んで、教員が再考する仕組みになっています。この制度の下で、学生からの請求によって成績評価を再考し、実際にそのうちの僅かですが、訂正することが行われています。
 第二に、独占禁止法以外に、各種の法律に基づいて、国や地方自治体が行った行政上の活動に対する取消訴訟を提起することが認められています。
 これについては多くの問題点が指摘されてきましたが、上記の公取委の審判制度に関連のある点として、「行政の無謬性という神話」に対する批判が行われてきました。「行政は間違うことはないのだ」「行政に誤謬はあり得ない」、という行政側の強固な姿勢は、組織防衛という意識、行政の面子(メンツ)の方が国民の権利・利益より大事という意識に基づく場合もあるように思われます。
 行政も実際には生身の人間が行うものですから、間違うことはあり得るのであり、いったん下した判断に固執しないで、異なる意見に対し謙虚に耳を傾ける、という姿勢が求められます。
 公取委が、いったん違反行為に当たるとして判断しても、審判で同じ公取委が判断すること自体が不公正な手続きだと批判することは、上のような行政はいったん判断を下したら、これを変えることはない、という行政側の誤った対応をそのまま前提としている点で、不適切な考え方と言えましょう。
 第三に、ではどのように再考し、考え直すかという具体的な手続も重要です。公取委の審判は、公取委が行った勧告(事前審査型審判方式の場合)または排除措置命令(不服審査型審判方式の場合)について、被審人の主張・立証を公開の場で十分に行わせ、再度新たな目で慎重にかつできる限り公平な目で検討し直すという制度です。
 前記の第一で例を出した学生からの成績評価調査請求制度でも、学生は単に評価をし直してと要求するのではなく、具体的な理由をあげることが求められており、教員によるそれへの返答も、それについて具体的に説明することになっています。第二の例で出した行政訴訟においても、同様に、原告は請求の理由をあげ、その証拠も提出することが求められています。
 その上で、公開の場で審査官と被審人がそれぞれ自分の主張を説得的に提示する過程が重要なのです。さらに、それをふまえて出される公取委の答え(=審判審決)では、両者の意見を詳しく検討し、それについての判断を説明することが求められています。
 以上のようなことから、同じ公取委が同じ事件について二度判断することは意味がない、という主張が、いかに偏った意見であるかが分かると思います。

三 審判制度の廃止について

 民主党は、政権を取る前から、マニフェストで審判制度の廃止を明示しています。しかし、その理由は明確ではなく、一部の議員の意見がそのまま採用されたのではないかという疑いもあります。  最近、政府および公取委は、審判制度の廃止を盛り込んだ法案を作成しようとしているとも聞きますが、その際には、審判制度廃止の是非について、より広く意見を聞き、議論をすることが求められます。  特に、審判制度が廃止され、公取委の独立性の基礎が危うくなると、上記のような、消費者の利益が軽視されることにならないか、よく考えるべきだと思います。


(おわり)