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■2015年8月15日付 | |||||||||
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■戦争体験を風化させない 尊い「今日の平和」 | ||
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東京大空襲を体験して 谷茂岡正子 1941(昭和16)年12月8日、大東亜戦争開戦の日、この日も遠い過去の日でしかなくなりました。戦後70年が過ぎた今、日本経済の高度成長期に生まれ育った人たちには、あの戦争は何だったのか、体験者の私たちは、今日こそ真剣にこのことを次代を担う人々に伝え残す必要があるのではないでしょうか。 私が最初の空襲に遭ったのは昭和19年の暮れ、B29が1機飛んで来て、爆弾が近所の田んぼに落下、幸いにも不発に終わり命は助かりましたが、この時わが家の床の間には、屋根を突き抜けて爆弾の破片が落ちていて、防空壕から出てきてびっくりしました。 当時身重であった私は、嫁に来る時、親が苦労して作ってくれた衣類や道具をすぐ実家に預けました。実家では家主の土蔵に保管してもらい一時安心いたしました。特に恐かったのは、亀有に軍需工場が、お花茶屋に高射砲陣地があり、戦闘機が目標すれすれまで低空で襲いかかり、機関銃を撃ちまくるのです。 空襲は毎晩でした。昭和20年3月10日の東京大空襲は、B29が300機以上も来て、19万発もの焼夷弾を落としました。一瞬にして火の海となり、10万人もの人が犠牲になり、下町一帯は一夜にして焼け野原になりました。 私は墨田区のある病院で出産の予定でしたが帰され、3月3日に自宅分娩をし、命拾いしたわけです。この大空襲の日は、空は真っ赤に燃え、焼夷弾がすだれの様に落ちている光景を見、ふるえが止まらず、今でも目に焼きついています。 私の実家は被害に遭い、父母や姉妹は防空壕から出てきたら、目の前の家は焼け、跡形もなく、ただ、3升炊きの鉄釜が残っており、中でご飯が炊けていました。近所の被災者同士で分け合って食べたと母から聞きました。 私が預けた家主の土蔵は、焼け残ってよかったと思ったら、そのあくる日、蔵から火が噴き出し全焼してしまいました。老夫婦は茫然として蔵の前で手を合わせてたたずみ、拝んでいたそうです。こうした罪のない人の家や財産、人を奪う悲しいことは二度とあってはなりません。 戦争の被害は言葉に言い表せないほどたくさんあります。戦争は罪もない人々に多大な犠牲と悲しみをもたらしました。 「今日の平和」は、このような尊い犠牲と悲しみの上に築き上げられたものであることを、私たちは忘れてはならないと思います。 いつまでも「戦後」で 山下陽枝 8月15日がまたやってきました。昭和20年8月15日の終戦から数えて70年、今年は大きな節目の年に当たります。 これを踏まえて国内外からいろいろなメッセージが発せられております。満州事変、日中戦争、太平洋戦争へと勝ち目のない戦争が拡大し、何百万人という犠牲者を出したあの戦争は一体何だったのかと改めて思います。 あれから70年が経った今、戦争経験者は減少の一途をたどっており、また戦後生まれの人は1億人を超え、人口の8割を占めるようになりました。「70年前」をもう遠い昔の時代と捉えている人は、今後ますます増えていくことは確かです。 しかしこのままでいいのでしょうか。そうではないと思います。女優の吉永小百合さんがテレビで「これからもずっと戦後であり続けてほしいです」と言っていたのを思い出しました。吉永さんは昭和20年生まれで「戦後70年の軌跡」は彼女の人生そのものだという気がします。その彼女が、これからもずっと「戦後」であり続けてほしいと願うのは、あの戦争を忘れないように次世代に継承してもらいたいというメッセージだと思います。 戦争を体験している私も「戦後」であることにいつまでも、こだわって忘れないで生きていこうと思っています。 受け身の悲劇のない平和な世を 端山純子 戦時中私たち家族は、疎開しないで東京に残り、迫りくる戦火の中を数々の危険を乗り越えて生きてきました。今でも、艦載機グラマンが火を吹きながら頭の上をかすめてすぐ近くに墜落した時の怖かったことは忘れられません。それから間もなく終戦を迎えました。 調布飛行場の事故 戦後70年、戦争のない平和な毎日を感謝しながら過ごしていた私に、先日突然、70年前と同じ逃れようのない“受け身の悲劇”の火の粉が振りかかってきました。 調布飛行場の近くに住む私は、普段から飛行機のエンジン音が気になっていました。あの日は異常な低空飛行に聞こえ、おかしいと思ったとたん強い衝撃音と共に家がバウンドしたので、近くに墜落したと思いました。 外に出ると落ちたのは3軒隣で、もう、燃えさかる炎と黒煙がわが家の方へ覆いかぶさるように迫って来て、アッという間に2軒隣からも炎が上ってしまいました。逃げ遅れた娘さんを呼ぶお母さんの悲愴な呼び声が心につきささり、何もしてあげられない無力を申し訳なく思うとともに、救いようのない悲しみを思い胸が痛みました。 戦争中でも平和な現在でも、いつも受け身である私たちは、どんなに気をつけても避けようのない危険にさらされている受け身の悲劇の現実を思い知らされました。 いつの世にもある受け身の悲劇を諦めることなく、経験した人たちが伝え続け、二度と起こらないようにしなくてはいけないと思います。 戦後70年の節目にあたり、他人(ひと)を思いやる温かい心を持って、誠実に生きて行く人たちと助け合って、核・戦争・受け身の悲劇のない、安全で平和な世の中になるよう、がんばりたいと思っています。受け身だからと諦めないで、前向きに―。 地婦連の平和活動を積み重ねて 大北恭子 今年は、終戦から、70年の節目になります。当時小学4年で栃木県に母と祖母、弟4人で縁故疎開でした。学童疎開は始まっていましたが、家族の疎開はなく、近所から非国民といわれたそうです。 父が8月15日に来て母屋の座敷で一緒に玉音放送を聞きました。「ああ、戦争が終わった」と。後に父が家族を心配し疎開先に来てくれたことが分かりました。 私は能天気で田舎での疎開生活を大いに楽しみました。とはいえ親戚のない日々の暮らしはままなりませんが、ご近所の老夫婦が優しい方で、お風呂を使わせていただいたのが今でも思い出されます。秋に東京の学校に戻り、先生が黒板に「民主主義」と大きく書いたことや教科書を黒く塗りつぶしたことを思い出します。 直接、戦争の被害は受けませんでしたが、B29が低空で飛ぶ音が非常に怖かったのは忘れません。やがて成人し、書物や映像から戦争の残酷な実態を学びました。戦争はいやだとの思いで、地婦連の平和活動を積み重ねて今日に至ります。 毎年他団体と平和運動を行い、平和が保てると思いました。しかし、昨今の政府の方針が心配です。 若人に、私たちはあの戦争の恐ろしい記憶を呼び起こし伝えましょう。 平和をつなぐことは大切です。 私の体験記 中野三千代 私は小6で、集団疎開、縁故疎開を選択しなければいけない時代の小学生でした。祖父母が羽村に住んでいたので、小3の妹の手をひいて2人で電車を乗り継ぎ夕方羽村駅に到着。桑畑の道が続くなか怖がる妹を励ましながら祖父母の顔を見てやっとひと安心。就寝。 朝起きると私の仕事が始まります。はねつるべで水を汲み手おけに入れ勝手の水がめに、風呂おけに水を張る(井戸から風呂場まで土間を通り10メートルぐらい)、この慣れない仕事が大変でした。食糧事情も悪く、松林の松の根っこから松根油(しょうこんゆ)をとるために掘り起こしたところを畑に借り、野菜作り、いも作りに利用しました。 8月15日正午、玉音放送を母と一緒に聞いたときは身体の力が抜けて、ただ呆然とお言葉をかみしめていました。畑のない母と私の奮闘記の始まりです。おなかの膨れる物の種まきと、収穫に追われました。配給制度もありましたが今日は砂糖1ポンドとかバター1ポンドなどでお米ではないのです。買い出しに行かれた人もいますが、これは経験がありません。 女学校では昼の弁当の時間に校長先生が各教室を回り、弁当箱のふたを開けさせ見回りました。中身は、お汁がいっぱいの中にうどんが5本、細いサツマイモが5、6本、大根、にんじん、いもがたくさん入ったぞうすいのようなものでした。 2部授業とし午前の人は家に帰ってから、午後の人は家で食事をしてからという人の目を気にしないで十分なんでも食べられるシステムを考えてくださった校長先生は、素晴らしかったと思います。 女学校の様子はというと入学した当時は戦争が激しくなって、御嶽山のおじの家に疎開するため学校の備品を荷車でみたけケーブル駅の上の家まで運ぶ作業をしました。終戦になるとそれを学校に戻し、いざ授業となっても教科書と言えば新聞紙様で、先生が黒板に広げ折り方を説明することから始まりました。英語は初めてなので下から上に、右から左に、下から上に折り、輪のところを切る、綴じになるところは切らないようにと、説明を受け本を作り授業を受けた体験も今では貴重です。 語り継ぐことの大切さ 須光代 私は戦後生まれなので戦争の体験はありません。しかし、両親から戦争の話を聞くたびに戦争って嫌だなと子ども心に思ったものでした。残念ながら今でも世界の何処かで戦争は行われ、その恐ろしさにおののいている人たちがいます。 私たちの国では大事な第9条の憲法が正しく理解されない法律(案)が作られました。なぜあんなに皆が辛く悲しい、世界でも経験したことのない原爆を落とされ、今も後遺症に苦しんでいる人がたくさんいるのに残念なことです。そしてそのことを語り継ぐ人たちが少なくなっている現状です。 私たちも正しい情報を語り継ぐことが大切なことだと思います。私も微力ながら伝えていきたいと思います。 平和は武力ではなく外交努力で 梨洋子 「欲しがりません勝までは」「鬼畜米英」「贅沢は敵だ」「学童疎開」「戦災孤児」など、刷り込まれてしまって忘れられない文言です。 70年前の8月15日、あの愚かなひどい戦争は敗戦で終わったのです。当時、私は13歳でした。戦争による庶民の生活は最悪で、衣も食も配給制で当然足りず、近郊農家にお金と衣類なども付けて野菜やお米に交換、これを「タケノコ生活」と称する自虐的な言葉が流行。住宅も空襲で焼け出された見知らぬ家族を、町会からの割当で否応なく強制的に同居させられる暮らしでした。 こうして、愚かな戦争のツケをたっぷりと味わわされながら、それでも「平和」の有り難さを想う70年を経た今、私はこの平和な暮らしが危うい、と感じています。そうです! 安倍内閣が権力者を縛るはずの憲法に違反してまで、通そうとしている「安全保障関連法案」です。「国民の理解が進んでいる状況ではない」と首相が自認までしているこの法案、あの愚かな戦争が身にしみている私世代だけでなく、「戦争反対」を掲げている若い世代のデモが国会を取り囲んでいます。平和憲法に違反する「安全保障関連法案」は即刻廃案にして、外交努力で世界平和に貢献してください。 平和のありがたさを 黒崎照子 父が出征したのは昭和19年、私は5歳の時です。時々サイレンが鳴り空襲警報発令、子どもながら家族の足手まといにならないように、必死で祖母の手を握り走った記憶があります。 国民学校の入学式も空襲警報により時間遅れで開始。その年の8月15日に終戦を迎えたのですが何日過ぎても父は帰って来ません。毎朝私たち兄弟は、新聞を開き父の名前を捜し続け、母は何十回となく引揚援護局へお願いにいったことでしょう。 終戦から3年、生死不明の父はシベリア抑留から栄養失調の体で帰宅。その時私は4年生。父はいとこの小さな女の子を抱き上げ私の名前を呼んで「大きくなったなぁ―」 私は泣きながら父に駆け寄ったことを今でも鮮明に覚えています。やっとわが家にも終戦が訪れたようでした。 戦争は罪のない人びとまで犠牲にしてしまいます。戦後70年、今日も戦争の怖さをテレビで報道しています。今の平和のありがたさを祈らずにはいられません。 子や孫を戦場に行かせたくない 宮原恵子 私は終戦前の年に生まれました。戦争の記憶はありません。父や母に守られ、戦争放棄の平和憲法に守られてきた年代ですから戦後70年たった今平和憲法を改正して戦争ができる国にしようとしている現状はどうしても認められません。 9条改正(案)では、現行の「戦争を放棄する」は残すが「国の交戦権は、これを認めない」を削除して「自衛権の発動を妨げるものではない」としています。これは相手国の兵士を殺してもかまわないし、軍事施設を破壊しても良いということです。さらに「国防軍の保持」を加え、日本の平和主義が真っ向から否定されてしまうというのです。 私たち母親は、子どもたち、孫たちを戦場には行かせたくないから平和憲法9条を守りたいのです。 戦争を体験した世代が次世代に、二度とあの悲惨な体験をしてほしくないと語り継いでほしいと願っています。そして若い人たちは体験者からの声に耳を傾けることが平和につながるのではないでしょうか。 戦争を繰り返さない国であるように 鈴木文子 私が育った北区には戦争が終わって何年もたったのに、軍の施設があちこちに残っていました。今の赤羽団地には戦車がたくさん並んでいました。時々道路をガラガラとい大きな音を出して、走っていきました。とても怖かったことを思い出します。 庭には防空壕があり叱られた時の脅しに使われ、夏にはスイカを冷やしていました。荒川の河川敷では麦を、空き地では野菜を作っていました。 貧しくても手をかけて戦争のない安心の中で育ってきました。 親の世代が作ってくれた生活を子や孫の世代に引き継いでいきたいと思います。両親からは戦争の話を聞いた覚えがありません。辛いことがたくさんあったのかと思います。 今まで通り戦争のない世の中が続きますように願います。 豊かな美しい国いつまでも 犬伏瑠璃子 ここ連日蒼天炎暑の国土。70年前の、終戦の玉音放送を聴き号泣した国民学校5年の夏休みだ。「昭和の子供だ僕達は、欲しがりません勝つ迄は」自然豊かな四国でも校庭は大豆やサツマイモ畑に。実れば供出。教科書は次つぎと下の学年が使用。靴の代わりにわら草履。石けんは米ヌカ袋。洗剤はおけに灰を入れ水を注いで上澄みを代用。夜具の側(かわ)で、服を作りました。 海山に囲まれた四国も、昭和20年7月に4県の県庁・支所がB29の爆撃で周囲の空が赤々と燃え、涙を流して祈りました。 玉音放送で終戦を迎えたことが、今日の日本の平和と豊かさに。 男女同権、婦人参政権、男女共学、中学卒まで義務教育、個の確立、幸せの上に戦後は再興された。幸せ…。 改めて平和を祈る 世界に誇る物理学のノーベル賞。学問の自由の文化国家。経済活動も日本に豊かさを。今、オール電化の便利な恩恵に喜びよりも戦中を育った私は、不自由を常とした生き方をしみじみ恋しく思います。 言論も芸術も、すべて自由。母国日本は何と豊かな美しい国。改めて平和を、改めて自然を、改めて自覚して、と。幸せな70年を前に、合掌。 あの体験を伝えるのは私たちの役目 福本悦子 終戦を知らせる玉音放送を私は疎開先の父の実家で聞きました。座敷の真中に置かれた古いラジオは雑音がひどく、洩れ聞こえる声は聞き取れません。それでも聞き入る大人は首を下げ涙を拭う人たちもいて、その雰囲気は異様で戦争に負けたことを知りました。 まわりの大人の人に「今日から電気をつけてもいいよ」と言われた時9歳の私は子どもながら胸のつかえが下りるのを体験しました。 父の出征、母と別れ福井の山里での祖父母との暮らし、地元の子と早く仲良くなるために田植え、イナゴ取り、ゲンノショウコ摘み、ヨモギ摘み、ヒマワリの種とり、落穂ひろいなど、積極的に加わりました。中でも愛犬アカの出征は忘れることができません。小旗が振られる中、日の丸を背負ったアカが遠くに消えてゆきました。 あれから70年、戦争って何だったのでしょう。沖縄の本土決戦、広島、長崎の原爆投下、東京大空襲など、失った命は300万余名にのぼり、喪失感とむなしさだけが残りました。 生き残った者はがむしゃらに働きオリンピックや万博を成功へと導き、驚異の復興を遂げました。そんな中、いつの間にか54基の原発が4面の海を囲む、核利用国となっていました。 戦争も核も二度とイヤ、あの地獄の体験を伝えるのは私たちの役目、年をとったと嘆くヒマなどありません。 丸腰こそ戦争回避の良策 秋吉セツ子 ジャワジャワ、ジージーと攻め立てるような蝉の声とむせ返るような暑い日、終戦経験者にとって忘れられない夏だろう。 私の主人の家族も国策で満洲へ。終戦から1年後、命からがら引き揚げてきた。窓の開かない3階建ての引揚船は蒸し風呂で、生きて帰れたのが不思議だったという。毎日亡くなった人を白い布で包み戸板に乗せ、ストン、ストンと海中に落とす光景を主人も幼い目で見たという。妹も疫痢にかかり明日は海中かと観念もした。佐世保に到着しても疫病の関係で1カ月間停泊後、1人1人頭と背中へDDTを容赦なく吹きかけられ、寒かったが蒸し風呂からの開放で妙に気持ちがよかったと夫は述懐している。財産は全て没収され、家族のその後の生活は困窮を極めた。 政府の恣意的運用を防ぐため、武力行使に三重の歯止めをかけたというが、その総理が「仮想敵国名」を口にするなど言語道断、先んずれば人を制すは、戦争の挑発行為そのもの。国のために国民が生きる権利を奪われるような不条理が再びあってはならない。遠回りのようでも対話こそ平和への王道、丸腰こそ戦争回避の最大の良策と私は信じている。 |
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■67年の東京地婦連の歴史 悲惨な戦争の教訓から学ぶ | ||
風雲急を告げる国会ですが、今月は戦後70年に当たりますので、さまざまな取り組みの中から私たちの平和運動について、振り返ってみたいと思います。 67年目を迎えた東京地婦連の歴史は、「核兵器廃絶」「憲法9条」と「平和な暮らしを守る」歩みでもありました。 古くは第1回原水爆禁止世界大会への参加、第1回国連軍縮会議では唯一の被爆国としてのスピーチを行い、ビキニ環礁の水爆実験で被ばくした第五福竜丸事件に思いを寄せて、「福竜丸のエンジンを船体の傍に」という共同運動に情熱を注ぎ、夢の島公園への展示を実現させました。 その帰ってきたエンジンを見守る位置に植樹した「八重紅大島桜」を愛でながら、恒久平和を誓い、核兵器廃絶と原爆犠牲者への祈りを込めて折鶴を折る「お花見平和の集い」、そして表参道の「ピースアクション東京」、これらの共同運動も回を重ね、今日を迎えています。また戦後、自らの開拓地や暮らしを奪われた北方四島の元住民への思いから、北方領土返還要求運動にも、長年積極的に取り組んでいます。 近年、私たちは若い世代に戦争体験を語り継ぐために、7人の女たちの戦争体験をDVDに収録し、合わせて23人のあなたに伝えたい私の戦争体験文集を制作しました。「戦争を語りつぐDVD・体験文集」としてセットになっているものです。 これらは「2度と戦争を繰り返してはならない」という命のメッセージ集です。日本国憲法の根幹が揺らいでいる今こそ、平和学習の教材として、皆さまに活用していただければと願っております。 国民の多数意見を無視して閣議決定を行い、国会に安全保障関連法案を提出して、憲法9条の理念を多数決原理で勝手に変えようとしている政府に対しては、「集団的自衛権行使の名目でひとたび自衛隊を派遣すれば、当然のことながら戦争当事国と見なされ、さらに恨みを買い、報復の脅威にさらされる」と声を大にして申し上げたい。「私たちの生命と環境、わが国の未来のために、憲法を逸脱した無茶な採決を思いとどまるように」と。高齢の方には「どうぞあなたの戦争体験と今日の懸念を、共に語り継いでください」と、切に呼びかけます。 70年前、人間の暮しを崩壊させた悲惨な戦争、私たちはその教訓を無にすることはできません。「積極的平和主義」という美辞麗句に酔う危険性を認識しています。 地婦連の平和運動の歴史を振り返り、その思いを一層強くしました。 | ||
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■測定を通して監視を 二酸化窒素測定結果 | ||
大気汚染測定運動東京連絡会は、1976年から都内の団体や地域のネットワークが参加して、きれいな空気を取り戻し、住みよい生活環境を次の世代に引き継ぐために、大気汚染測定調査を行っています。東京地婦連は、当初から幹事団体として加わり、会員の自宅前の道路や周辺の気になる場所を測定してきました。下記の表は今年6月4日〜5日にかけて7区1市94カ所で行った測定結果です。 | ||
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■地域のニュース | ||
ふれあい広場 わか草婦人会 7月18日、堀切六丁目町会とわか草婦人会の共催で、第27回納涼ふれあい広場が九品寺駐車場で開かれました。台風の影響か時折雨が降りましたが、九品寺通りには人が溢れ、賑わっていました。 小学校2校の金管バンド部とブラスバンド部、中学校の吹奏楽部が日頃の練習の成果を発表、小谷野太鼓社中の勇壮な和太鼓も披露されました。 PTAや親父の会などの模擬店が並び、焼きソバやイカ焼きのおいしそうなにおいが漂っていました。町会の西瓜割りやスーパーボール、ヨーヨー吊りも子どもたちに人気がありました。 わか草婦人会ではラムネ、綿菓子、ポップコーン、枝豆、味噌おでんを販売しました。午前中から枝豆をゆでたり、味噌おでん用のコンニャクに串を刺したり、好評の味噌を作りやポップコーンや綿菓子の機械の試運転などで大忙しでしたが、準備万端整って販売開始の合図で一斉に売り始めました。 わか草婦人会では放課後の小学生を見守るサポーターをしているので、子どもたちから「おばさん」「サポーターさん」と声がかかり、大きくなった卒業生も挨拶をしてくれて、とてもうれしくなりました。 毎年夏休み初日に行われるふれあい広場は、子どもたちの楽しい思い出の一つになるのではないでしょうか。朝から忙しい1日でしたが、みんなの笑顔に出会い、楽しく甲斐ある日でした。 |
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